「65回目の病院の誕生日に」

今日は65回目の病院の誕生日です。昭和24年の今日、私たちの病院は設立されました。この春に、私はみなさんに、この病院の向かうべき未来についてのお話をしましたが、今日は病院の誕生日ですから、病院が生まれた背景や歴史について振り返ってみて、私たちが病院の先輩達からどのような思いを託されているのかを考える機会にしたいと思います。

明治から大正、昭和にかけて、日本の精神障害者は「患者さん」という扱いではなく、「社会に迷惑をかける人、他人に危害を加えるかもしれない人たち」として処遇されていました。病人として引き受けてくれる病院は日本に数カ所しかなく、家族が警察署に届け出て許可を受けると、自宅内に監獄を作って合法的に閉じ込めておくことができるという制度があり、患者さんは、閉じ込められたまま座敷牢で短い一生を終える、という悲惨な状況に置かれていました。

この状況を詳しく調査した当時の東大精神科教授の呉秀三という先生が、大正7年の報告書の中で「わが国の精神障害者は、この病を受けたという不幸に、わが国に生まれてしまったという不幸を重ねて背負っている」と嘆いた有名な言葉をご存じの方も多いでしょう。呉先生は、「精神障害者は病気であるのだから、同じ人として病院で治療を受けさせるべきである」という人道的な考えをわが国に導入した先駆者であったのですが、残念ながらこの提言は、議会の抵抗や世の中の偏見、戦争などの混乱で長らく放置され、呉先生の考えが国の政策として実現されるのは戦後、昭和25年の精神衛生法まで待たなければなりませんでした。そして、国の資金援助が始まった昭和29年以降、ようやく全国各地に精神科病院が建てられ始めることになったのです。

さて、この呉先生の東大での愛弟子であった林道倫という先生が、大正13年に岡山大学の精神科教授として赴任されてきます。その岡山大学で、呉先生から林先生に引き継がれた「ヒューマニズム」の薫陶を強く受けて当院を創設されたのが、初代院長の高見孝志先生です。当院の誕生は昭和24年。世の中はまだ精神衛生法の制定前、更に、精神疾患に有効な薬物が発見されるよりも以前で、周囲の抵抗はさぞ激しかったでしょう。加えて、戦後間もなくで物資の供給もままならない状況の中、国の要請ではなく、高見先生が林先生から授かった「分け隔てのない人間愛」という確固たる理念と強靱な意志によって、私たちの病院は県北初の精神科医療施設として設立されました。そのことを私たちは忘れてはいけませんし、誇りに思わなければいけません。

ここで、私たちの病院の理念を思い出して下さい。その中に「患者さんへの安らぎ、愛、希望」の言葉があること、そして、同じく林先生に惹かれて群馬から岡山にやって来られた二代目院長の修多羅正道先生が、新しい病院の名に「希望ヶ丘」を選ばれたこと、これらが必然であることは、病院の歴史背景からお分かりのことと思います。この先、病院が困難に出会ったとき、行き詰まったときには、創立者の情熱と病院の理念・病院の名を思い出しましょう。今、働いている私たちは、素晴らしい先人達の理念を引き継ぎながら仕事をしていること、そしてそれを同じように未来へつなげなければならない使命がある、ということを忘れないでいきましょう。以上のことを、本日の創立記念日にあたっての、私から職員の皆さんへのメッセージとしたいと思います。

 

2014年10月1日